認知症介護を支える医療とは
2025.07.28
「まさか最後にこんな穏やかな日々が訪れるなんて思いもしませんでした」
とある訪問診療先で私が聞いた認知症患者さんの家族の言葉である。患者のKさんに最初の異変が起こったのは今から8年前、74歳頃のこと。記憶力の低下とあいまって同居の奥さんや娘さんなどに対しての暴言や暴行が始まった。その暴力行為は年月と共にどんどんエスカレートし、3〜4年後にピークを迎えた。
「怒鳴る」「怒る」「殴る」「噛みつく」「唾を吐く」「蹴る」「暴れる」強烈な介護抵抗のため、オムツの交換時に家族は毎回便まみれ、唾まみれの地獄絵図。内科疾患を診てもらっていた主治医に付き添いの家族が何度も相談したのだが、診察室では紳士的で全くボロを出さないKさんを見て、初めのうちは主治医も真剣に取り合ってくれなかったと言う。
他人にはニコニコと愛想が良いくせに自分の家族に対してだけ豹変するKさんの暴力を近所の人にも理解してもらえず、奥さんや娘さんたちは長い間辛い思いをしてきた。本当にそんなことしているのか信じられず家まで見にきた人もいた。またときにはあなた達の介護の方法が悪いのではと心ない言葉を浴びせられることさえあった。
やっとの事で主治医の理解を得て某総合病院のもの忘れ外来を受診したのは発症から5年も経ってのことである。しかし家族の淡い期待はそこで粉々に打ち砕かれることになる。MRIを始め様々な高額医療機器を駆使して下された診断はごくありふれた「アルツハイマー型認知症」。そして総合病院の医師はこう言い放った。「もう手遅れです。何もなすべきことはありません。治療のすべはなく薬もないからもう来なくて良いです。あとはケアマネジャーと相談して介護サービスを受けてください」
絶望感に打ちひしがれた家族は主治医に相談し、一縷の望みをかけて認知症治療薬を出してもらうことにした。ところが処方されたアリセプトによってKさんの暴力はさらに悪化してしまう。メマリーも効果なく、困った家族は今度は某精神科医の元を訪れた。しかし処方された抗精神病薬のグラマリールを飲んだKさんはすぐに歩けなくなり、体は前傾姿勢となり、ヨダレが滝のように溢れ出てきた。薬を減量してみたが暴力行為のコントロールはつかず、代わりに処方されたリスパダールを飲ませると明らかに顔つきや目つきが変わり、逆に興奮状態になるのがわかった。困った家族が薬の副作用を訴え別の薬を希望したときに精神科医は不機嫌そうな顔でこう言った。「どうせ私が違う薬を出してもあなた達はきっとダメだというに違いないから、もう薬は出しません」
このとき家族は医療に対して深く絶望し、あとは自分たちの介護でどうにかするしかないのだと悟った。その後2回の誤嚥性肺炎での入院を経て、寝たきりとなったKさん。2回目の入院中にはほとんど経口摂取もできなくなり、点滴の自己抜去を防ぐために日に日に手足の抑制が強くなっていった。家族はそんな状況でも退院して自宅での介護を希望した。退院前には在宅医療に理解のない病棟看護師から「本当に家に帰るのですか?」「点滴をやめたらすぐ熱が出ますよ」「どうするつもりですか?」「もし自宅で死亡されたら警察が来て検死するんですよ」などと脅かされたと言う。
かくして訪問診療が開始となり、訪問看護も導入してKさんの人生のラストステージを支える準備が整った。経口摂取は退院後もごく少量にとどまったが点滴は1回だけ奥さんの希望で行った以外、一切行わずに自然な経過を皆で見守った。そして退院から2週間あまり、Kさんは静かに旅立たれた。最後の10日間はそれまでの壮絶な日々が嘘のようにすっかりおとなしくなったKさんの最後の介護を奥さん、娘さん、お孫さんで支えた。その時の娘さんの言葉が冒頭のものである。
「私、父の骨を拾うことができました 」これは葬儀も終わりほっと一息ついた時の娘さんの言葉である。何もしてあげられなくて申し訳ない、もう少し早い段階で自分が関わりたかったという悔しい思いの私に娘さんはこう続けた。「最後の2週間がなかったら私は父のことを憎み続けてきっと骨も拾わなかったと思うんです」「最後の最後に皆さんのおかげで救われました。本当にありがとうございました」
このようなケースは決して稀ではなく、日本中にありふれている。待ったなしで激増中の認知症患者さんとその家族を地域全体で支える地域包括ケアシステムの構築がいま政府主導で進められているが、サポート体制が着々と出来始めている一方で一番遅れているのが医療の分野だと私は感じている。
現在のところ根本治療がない認知症に対して、一番求められるのは患者さんが自宅や施設で穏やかに生活できて介護者が困らないようなBPSDのコントロールであり、決して患者さんの記憶力改善が最優先ではない。認知症の進行により記憶力が低下してくるとアリセプトなどの認知症治療薬がどんどん増量され、その副作用で興奮性や歩行や嚥下の悪化をきたす場合があることをよく知っておくことが重要であり、アリセプトなど治療薬の減量や中止だけで妄想や興奮性が収まり介護しやすくなったケースは枚挙にいとまがない。
そして認知症が他の疾患と違うのは必ず介護者が必要だということ。介護者が倒れては認知症診療は成り立たない。いつも介護者に寄り添いその言葉に耳を傾ける姿勢が認知症診療に当たる医師に最も必要なことだと私は考える。
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